シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第 1 節 「古代の日本と渡来人」

井上満郎著(京都産業大教授)ほかより

1. 秦氏や東漢(やまとのあや)氏の渡来

(1)古事記では応神天皇段に「秦の造(みやつこ)の祖、漢直(あやのあたい)の祖と、参渡(まいわた)り来ぬ」とある。

日本書紀の方が詳しい。応神14年の条に「1.祖先は弓月君という人物、2.百済国から来た、3.「百二十県」という人数であった、4.途中で新羅に妨害された、5.加羅国に抑留された、6.大和国は救援に葛城襲津彦(そつひこ)を派遣した」とある。この伝承の段階では、中国の秦の後裔とは記されていない。渡来が応神天皇期というのは作為か? 秦氏が秦の始皇帝に結び付けて登場するのは「新撰姓氏録」から。

秦氏が氏族としての存在を持つようになったのは京都嵯峨野地域の古墳の成立時期からみて5世紀後半ではないか。

(2)日本書紀では「倭(やまと)の漢直(あやのあたい)の祖 阿智使主(あちのおみ)、其の子 都加使主(つかのおみ)、並に己が党類17県を率て、来帰(まうけ)り」とある(より詳しくは、続日本紀に)。

伝承によれば渡来した阿智王は仁徳の時代に高麗・百済・新羅の村主を迎え入れ今来郡(奈良県高市郡すなわち飛鳥)に住まわせたが土地が狭くなり、摂津・参河(みかわ)・近江・播磨・阿波などに分住させたとある。東漢(やまとのあや)氏は秦氏とならぶ渡来系の最大の氏族であり、漢(あや)の原義は朝鮮南部の有力国、安羅に由来するものと考えられている。

アヤという言葉は、もともとは穴織(あなおり)と書かれていたものが後に漢織と表記されたりアヤ(ノ木偏に歳)人(あやのひと)と書かれたりした事例が多い。漢は阿羅伽耶すなわち阿羅・阿那をさすようである。これが百済人と後にされたのは本国の伽羅が滅び親しかった百済に吸収されたことからくるものであろう。

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以下は「帰化人と古代国家」(平野邦雄 著)を中心にメモ作成。平野氏は1923年松江生 東大文学部史学科 東京女子大名誉教授

2. 継体

継体は地方豪族の出自で、大和王権を簒奪したと見る意見(直木孝次郎「日本神話と古代国家」)が支配的見方であったが、これに対し、継体は北近江の息長氏の族内に出生したが、もともと息長氏は地方豪族とは言えず、それまでにも大和政権の人との婚姻を繰り返していたので言わば「皇親氏族」と見るべきである、とする有力な説が提示された。

この説によれば、「5c末ごろから大和の王室は、臣系氏族の干渉を排除しつつ皇親氏族を背景に権力主体を確立し、やがて継体を輩出するに到る。継体の時、大王(おおきみ)・大后(おおきさき)・大兄(おおえ)の制度を定着させ、蘇我氏と対抗しつつ敏達・息長タラシヒヒロヌカ(舒明)のラインを生み出す。このラインは息長氏を中軸としつつ王室の血統を最も純化させ、最後に天智・天武を輩出するに到る」とされている。

3. 和邇(わに)氏

和邇氏も息長氏と似たような皇臣氏族としての役割を果たした。雄略より敏達まで、すなわち5c後半より6c後半まで、交互に后妃を出し息長氏と補完関係にあった。この両氏は、大和の父系の大王氏との対比では、皇親であるとともに母系の氏ということができる。継体は母系の氏から大王が補給されたに過ぎないということになる。

ワニ氏は天理市和邇町を発祥地とする。6c中頃までにワニ氏は、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比偉(人偏を取る)臣などのウジに分裂、春日臣が最も有力だったらしい。春日大社付近の根拠地をを後に京都方面に北上させたとみられる。小野・粟田両氏は愛宕(おたぎ)・宇治郡から近江国にかけてを拠点とした。

今の京都市域の東北部には粟田口、小野(高野川上流)などの地名が残っている。粟田氏や小野氏が支配した地域の名残である。左京区上高野の崇道(すどう)神社裏山からは、小野毛人(おののえみし)の墓誌が出土している。毛人は遣隋使小野妹子の子である。八坂神社あたりから南は、八坂氏の支配地で「八坂造狛国の人」とある。織部(錦織部)も渡来系の工人集団で、畿内を中心に各地に設けられた織部に分散居住した。加茂川と高野川の合流点(出町柳)から南にかけて鴨川の周辺にも織部郷が雄略期以降、存在した。

近江の滋賀郡でも、渡来系の諸氏族の分布がみられる。滋賀郡は、北から真野郷・大友郷・錦織郷・古市郷の四郷からなるが、真野郷には小野氏の氏神である小野神社があり、妹子については「大徳小野妹子 近江国滋賀郡小野村に家す、因りて以て氏と為す」(新撰姓氏録)とある。真野氏も和邇の同族である。和邇氏は北陸方面に多くの部民を有していた。彼等は日本海側から琵琶湖・宇治川・木津川を経て大和にいたる交通路を支配していたとみられる。

小野・粟田両氏からは、妹子が遣隋使に、その孫の小野毛野や一族の小野馬養(うまかい)は遣新羅使に、粟田真人(まひと)は遣唐執節使に任じられている。

大友郷には、大友氏や穴太氏の居住が確認できる。「大友の史(ふひと)百済国の人」、「穴太村主(すぐり)曹氏宝徳公の後なり」などの記載が史料にみられる。錦織部は古市郡(現大津市)あたりに居住した。

群集墳墓の石室構造が、小野氏地域の真野郷と大友・錦織郷との間で大きく異なっている。8cの氏族分布の境界を示すものであるが、このような分布は6−7cにさかのぼると考えられている。

4. 百済の亡命者

白村江の敗戦とともに渡来した百済王族や高級官僚は、はじめ近江に居住させられた。余・鬼室らの姓の男女700余人を蒲生郡に置くとか、百済男女400余人を神前(かんざき)郡に置くとかが史料に記されている。余は百済王氏であり、鬼室は福信ら高級官僚を輩出した一族である。当時、天智は大津京にいたので、宮室の所在する国郡に居住させられたのであり、かって漢氏が飛鳥に居住させられたのと同じである。

これら百済からの新帰化人の氏を見ると、古い帰化人とは全く氏姓を異にしている。余・鬼室・答本・沙宅・四比・吉・谷那・憶頼・木素・許・カ--西の下に貝・楽浪(さざなみ)などが見られる。

かれらは天智に登用された。鬼室集斯は「近江令」施行にあたり学職頭(ふみのつかさのかみ)に任ぜられ、答本春初は長門に派遣されて築城、大友皇子の学士の一人となり、四比福夫と憶礼福留は筑紫で二城を築き大宰府の設立に参加した。天武はこれら新帰化人を退け、古い東西漢氏系の武力をもっぱら利用した。新帰化人が再び活動の場を与えられるのは平城京の時代まで待たされることになる。

奈良時代には、古い帰化人は畿内各地で土豪化した。近江関係では、大友の村主(すぐり−滋賀郡大領・小領)、穴太の村主(坂田郡主帳)、依智秦公(えちのはたのきみ 愛知郡大領)、秦大蔵忌寸(愛知郡少領)などがある。その後、同化が進み賜姓も盛んになって姓が日本化し、また大陸文化の輸入は遣唐使によりなされたので、畿内における帰化人の歴史は平安時代中期にほぼ幕を閉じる。

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以下は「渡来人のムラ」 小笠原好彦 滋賀大教授 分担執筆(新版「古代の日本5 近畿I」角川書店 '92刊)などより

5.穴太遺跡

文献には、古墳時代の近畿では各地に渡来人が居住したことが記されている。しかし発掘調査で渡来人のムラの生活の一端が明らかになったのはごく限られており、数少ない事例の一つが滋賀県の穴太遺跡である。

穴太遺跡は、穴太「野添」古墳群、穴太「飼込」古墳群の東南500mにあり、穴太廃寺も遺跡の一部に含まれる。遺跡の建物群は、廃寺の東と西にそれぞれ500m離れた地点で見つかっている。

坂本から南滋賀にかけての一連の古墳群は、玄室の平面が正方形や横長で四壁がドーム状に持ち上がり天井には巨石一個が置かれること、ミニチュアの竈・釜・甑(こしき)などの炊飯具セットが副葬されていることなどから、すでに水野正好氏により、漢人(あやひと)系の渡来氏族が埋葬された古墳群であることが明らかにされている。

6. 切妻大壁造り住居

建物群で注目されるのは三層の地層の遺跡の最下層(6c末)から発見された切妻大壁造り住居であり、これは他の地域では例のないものである。幅60cmの溝を長方形に掘り、柱をめぐらし、向かい合う二辺の中央に少し太い柱を立てて切妻型の棟を支えていた。床に根太(ねだ)が見つかったことから、内部は土間が三分の二、上げ床が三分の一の構造であることが判明した。復元された住居に類似したミニチュアの焼物(和歌山市六十谷出土)が朝鮮半島からもたらされたものとされているので、穴太遺跡の住居様式も半島から導入されたものとみることができる。

近江南部で竪穴住居から掘立て柱住居に移行するのは7c前半から中ごろにかけてであったが、穴太遺跡では6c後半にすでに竪穴住居を伴わない集落を成していたらしく、建築様式や文化面で当時の先進地域であったことをうかがわせる。このことから掘立て柱住居様式は、渡来人がもたらしたものと考えることも可能である。

7. 寺院以前の草堂と思しき建物跡

一辺5m,高さ30cmの基壇をもち礎石を配した三間四方の建物跡も見つかっている。壁土の粘土も検出されているので土壁であったことがわかる。6c末でこのような基壇と礎石を持った建物は大和の飛鳥寺寺院のほかには見つかっていない。この遺跡は、穴太廃寺を造営した渡来系氏族の穴太村主(すぐり)一族の居住したとみてよいムラなので、廃寺に先立つ仏堂的な建物であったとみられる。

この地域の渡来系氏族が早くから仏教を崇敬していたことは、608年(推古十六)に再び隋に渡った小野妹子に随行した学問僧の一人にこの地域出身の志賀漢人慧隠(しがのあやひと えおん)が含まれていたことからも明らかである。

8. オンドル

さらに注目されるのは、三基の石組みオンドル跡が見つかったことである。焚き口・燃焼室・煙道から構成されており、朝鮮各地や中国吉林省のものと比べると百済の扶蘇山城のものが最も近い。

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以下は「野洲川左岸の古代集落」 小笠原好彦滋賀大教授執筆

新版 「古代の日本」(角川書店 '92年刊)の第五巻「近畿I」より抜粋。

同教授は1941年生、東北大修士課程終了、古代集落と都城の研究が中心、「近江の古代寺院」、「家形埴輪の配置と古墳時代豪族の居館」、「クラと古代王権」などの著作あり

9. 岩畑・高野・辻の遺跡群

野洲(やす)川が山間から沖積平野に出たところに栗東がある。国道一号線と八号線が分岐するところが字 大橋。大橋の東の高野、辻の地域は両国道と野洲川に囲まれた地域である。ここに、岩畑遺跡、高野遺跡、辻遺跡という三つの規模の大きい古墳時代の集落跡が集中している。

岩畑遺跡は、高野神社の東側一帯に広がる野洲川の自然堤防上に立地している。方形の竪穴住居89棟、前方後方型周溝墓一基などがみつかり、弥生時代末から古墳時代後期まで続いた集落であることが判明。古墳時代前期の竪穴住居は床に炉があり、土師器(はじき)だけが出土。後期のものからは、壁面に竈が設置され,須恵器も出土。この違いで区分けすると、前期が49棟、後期が40棟、敷地は複雑に重複している。

数棟がそれぞれひとつのグループとして広場を半円で囲む形で建てられていた。農作業などを共働した血縁的つながりで結ばれた世帯共同体が構成単位だったと思われる。

岩畑遺跡の西500mに高野遺跡がある。中ノ井川と葉山川に挟まれた平地にある。古墳時代前期を中心に後期までの40余棟の竪穴住居が検出されている。

辻遺跡は、岩畑遺跡の北、八号線と県道守山高野線が交差する辻交差点付近にあり、古墳時代前期から八世紀にかけて営まれた遺跡。一片が10mを越す大型住居跡もある。交差点西50mにも住居跡がある。

三遺跡とも、当時としてはかなり規模の大きい集落であったと思われる。

10. 肥沃土壌を求めて集落が拡散

岩畑・辻遺跡は中粗粒の灰色の低地土壌、高野遺跡は細粒の灰色低地土壌。いずれも野洲川左岸では最も生産性の高い土壌。このあたりでの時期別遺跡の分布を見ると、弥生前期には湖岸の志那中・烏丸崎・赤野井浜(下記 注)など、湖岸で地下水位の高い細粒のグライ土壌に立地している。用水を引く必要のない地区で稲作が始められたことを示している。前期でも箇所は少ないが、芦浦(草津)・寺中(守山)・中沢(栗東町)の諸遺跡のように、細粒や中粗粒の灰色低地土壌に立地していたところもある。 

弥生中期では、野洲川と葉山川との間で守山市域の二ノ畦・播磨田東・小島・吉身西・欲賀南(ほしか みなみ)、更に南の栗東町の野尻・下鉤(しもまがり)などの集落が営まれたことが確認されている。これらはいずれも灰色土壌系の耕地で、用水を必要とした未開発地に集落が進出したことを示している。

弥生後期には、守山市の古高・吉身北・吉身東・伊勢や、栗東町上鉤などの集落が営まれ、弥生末ないし古墳時代前期には、野洲川扇状地の扇央部(金勝山地の丘陵近く)の灰色土壌の耕地を求めて、上述の岩畑・辻・高野の三遺跡が出現することになる。

(注)赤野井の遺跡は、近隣地域の他の遺跡に先駆けて堀立て柱建物が登場した遺跡であり注目される。近江南部では竪穴住居から掘立て柱住居に移行するのは概して7c前半から中頃にかけてであったとみられるが、赤野井遺跡では既に6c後半ごろ掘立て柱建物への移行が始まっている。この遺跡は東西二町、南北数町にわたる「古条理(古い時代の地割)」の範囲内にあり、書紀に記載のある「葦浦の屯倉(あしうらのみやけ)」にあたる場所とみられていることから、赤野井の掘立て柱建物跡は、その地域の統括・管理のために朝廷直轄地に建てられた屯倉(みやけ)ないしその関係の建物群ではないかとみられる。

11. 岩畑遺跡の出土物

岩畑遺跡からは鉄製品が高い出土率で見つかっており、武器を持ったムラであったことがわかる。鎌・刀子(とうす)・鉄鏃(てつぞく 鉄製のヤジリ)などである。鉄鏃は特に注目される。狩猟にも使われるが、各地の古墳では武器類とともに副葬されているので武器と見てよい。近江地域の他の集落遺跡と比較してもきわめて高い比率で鉄鏃が出土している。稲作のかたわらかなりの武器を常備していたムラであった可能性が高い。

岩畑遺跡が東海道と、野洲川を横断する東山道の両道が交差する位置にあることから、軍事的にも重視された集落であったらしい。後の壬申の乱の際「男依(おより)等、安河の濱(ほとり)に戦いて大きに破りつ」と書紀に記されている場所であり、さかのぼっての古墳時代の大和政権にとってもこの岩畑・高野・辻遺跡は軍事的に重視した地域の集落だったといってよい。

12. 三集落周辺の古墳

岩畑遺跡の南1.5km、六地蔵の丘陵にある前期の岡山古墳(円墳)からは、二種類の鏡が出土。その一つは大分県と三重県の古墳出土のものと同氾(竹冠をつける)関係が見られる。辻遺跡の西北1.2kmの出庭(でば)には前方後円の亀塚古墳がある。この古墳からは愛知県、京都府、鳥取県の古墳と同氾関係のある鏡が出土している。これら2古墳は位地から見て岩畑・辻・高野遺跡と深い関わりを持った首長の古墳と見て間違いない。

時代的にこれに続く古墳には、前方後円墳で栗東町の大塚越古墳、帆立貝式古墳で短甲、鉄剣、鉄鏃が多数出土した椿山古墳がある。更に次の時期には南の安養寺丘陵に、佐世川・毛刈(もうかり)・山の上・新開・下味(したみ)などの古墳が作られた。新開古墳には鏡・武器のほか、9領もの甲冑と馬具が副葬されていた。

この地域に住んでいた有力氏族として、小槻山君氏(おづきのやまのきみ)が知られている(始祖は下戸山の小槻大社に祀られている)。古事記によると皇別の氏とされ名族であり、小月山公・小月臣いずれも同郡に居住。続日本紀、正倉院文書、三代実録などにその氏人の記述がみられる。続日本紀では、737(天平七)に栗太采女 小槻山君広虫の名が見えることから、栗太郡で采女を出す有力氏族であったことがわかる。「山君」とされているから山部連(やまべのむらじ)の配下にあり、林業や鉄生産に関わったと見られている。小槻大社の祭神は於知別命と大巳貴命(大国主命のこと)。於知別命は垂仁天皇の子で、小月山君の祖である日本尊の祖父。近江南部を代々が統治した。周辺には6c後半とみられる9基の古墳群があり、小月山君一族のものとみられる。小槻大社は平安初頭以来、朝廷よりたびたび神階の沙汰あり。康永三年に正一位に。近江守護青地氏の崇敬篤く、現本殿(重文)は青地元真の造営(室町時代の永正16年)になるもの。

近江には高島郡マキノ町の北牧野遺跡, 草津市野路の小野山遺跡など、高島・栗太両郡には製鉄遺跡が集中しているので、小槻山氏も鉄生産にかかわっていた可能性が高い。

山部の連氏は軍事面でも重要な位置を占めていた氏族であったことや、栗太郡は同様に軍事的氏族とされる建部君(たけるべのきみ)氏の根拠地であったことなども注目される。

以上から総合すれば、野洲川左岸の要衝に集中して営まれた岩畑・辻・高野の諸遺跡は単なる農業集落にとどまらず、軍事的な性格も帯びていたと考えられる。(了)


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